February 09, 2018
生と死の分かれ道
沢山の旅をして来た私の人生の中で、説明のつかない何かの力に助けて頂いたと思うようなことが何度もありました
(写真:ぶらりとミラノにて)
そしてその中でも一番忘れられないのは、2004年12月26日のことです。
Readerの皆さんは、その日に何が起こったか覚えていらっしゃるでしょうか
それは、『スマトラ沖地震』が起きた日です。
その頃私は、まだMizko's Via Marconaをオープンしていず、日本とミラノを定期的に行ったり来たりしていました。
そしてその行き来には、バンコク経由のタイ航空を使っていました
私とタイとのお付き合いも大変長く(そのお話はまた後日として)、バンコクには行き帰りに寄っていたので、常宿としているホテルに衣類を預けているほどでした
この時は日本での仕事を終え、タイでクリスマスとニューイヤーを過ごしてミラノに戻るという、2週間の旅でした
それまでの私は、ビーチホリデーが大好きで、タイでも色々なビーチを旅していました

昔タヒチのボラボラ島でハリケーンに遭い、珊瑚礁(ラグーン)の外の小さな島が、高波に飲み込まれるシーンを実際に見て恐ろしくなりましたが、ラグーン内であれば安全だという安易な気持ちでビーチホリデーを続けていました
この2週間のスケジュールは、最初の一週間はいつものバンコクのホテルで過ごし、後の1週間はビーチホリデーを計画していました。
そして選んだビーチは、当時新リゾートして脚光を浴びていたKhao Lak(カオラック)でした。
カオラックは「スマトラ沖大地震」で一番被害の大きかった場所です
この災難から逃れられたのは、先ずは、どうしても現地のホテルの予約が取れなかったことと、バンコク入りしてから、どうも私の体調が優れなかったために、カオラック行きを諦めたからでした
体の不調は、頭が痛いわけでも、熱が出たわけでもなかったのですが、今まで感じた事が無いような、言葉では説明が出来ないような違和感がありました

地震前日25日には、明朝カオラックに行くという外国人夫婦と出会い、私は、まだカオラックのホテルが確保出来ていないことを話し、「もし今夜にでもカオラックのホテルにキャンセルが出たら、私も明日カオラックに行くわ。そうしたらカオラックでも会いましょうよ。」と私は言って、2人と別れました。
そうは言ったものの、その夜どうしても体調が優れなかったので、私はカオラック行きは諦め、この2週間はバンコクに留まることを決めました。
26日はお天気も良く、チャオプラヤ川沿いのレストランで朝食を食べ、そこにはいつもと変わらぬ静かな時間が流れていました
部屋に戻ると電話が鳴りました
日本からです。
当時のスタッフが電話の向こうで泣いているのがすぐ分かりました。
それでスマトラ沖で大地震が起こったことを知りました
彼女にもカオラックに行くと言って来たので、もしかしたら被害に遭ったのではと思って、電話をして来たのです。
なかなかニュースが入って来ず、様子が分かるまでかなりの時間が掛かりました。
暫くしてから、中でもカオラックの被害が酷いことを知り、次々と津波に飲まれるホテルをテレビで観ました.

その時の私はただただ神様に手を合わせていました
同時に前夜に会った2人を思い出し、彼らも巻き込まれたに違いないと思い、涙が止まりませんでした
地震から3日ほどたった午後、私は自分の目を疑いました。
25日の夜に楽しく会話した彼女がホテルにいました。
彼女も私の顔を見てびっくりしています
お互いに「生きてたのね〜
」と泣きながら抱き合いました。
彼女は、数日私の姿が見えないので、ホテルに空きが出てカオラックに行き、被害に遭ってしまったのではと思っていたようです。
そして彼女は何故ホテルにいたのか
彼女が言いました…『Mizkoと会った後部屋に戻ったら、急に高熱が出て、行かれなくなったのよ。風邪も引いていなかったんだけれどね。』
生と死の分かれ道…
この時の私達は、何か見えない力に助けて頂いたと信じています

感謝の気持ちで一杯で、バンコクに行けば、必ずお寺のお参りは欠かしません
こうして繋ぎ留めて頂いた命は、これからも大事に、そして熱く燃やし、少しでも人様のお役に立てるように精進して生きて行きたいと思います。
あの時命を落としていたら、あなたにも出会えなかったですものね…
今日の日のこの命に感謝
乾杯
(写真右)


そしてその中でも一番忘れられないのは、2004年12月26日のことです。
Readerの皆さんは、その日に何が起こったか覚えていらっしゃるでしょうか

それは、『スマトラ沖地震』が起きた日です。
その頃私は、まだMizko's Via Marconaをオープンしていず、日本とミラノを定期的に行ったり来たりしていました。
そしてその行き来には、バンコク経由のタイ航空を使っていました

私とタイとのお付き合いも大変長く(そのお話はまた後日として)、バンコクには行き帰りに寄っていたので、常宿としているホテルに衣類を預けているほどでした

この時は日本での仕事を終え、タイでクリスマスとニューイヤーを過ごしてミラノに戻るという、2週間の旅でした

それまでの私は、ビーチホリデーが大好きで、タイでも色々なビーチを旅していました


昔タヒチのボラボラ島でハリケーンに遭い、珊瑚礁(ラグーン)の外の小さな島が、高波に飲み込まれるシーンを実際に見て恐ろしくなりましたが、ラグーン内であれば安全だという安易な気持ちでビーチホリデーを続けていました

この2週間のスケジュールは、最初の一週間はいつものバンコクのホテルで過ごし、後の1週間はビーチホリデーを計画していました。
そして選んだビーチは、当時新リゾートして脚光を浴びていたKhao Lak(カオラック)でした。
カオラックは「スマトラ沖大地震」で一番被害の大きかった場所です

この災難から逃れられたのは、先ずは、どうしても現地のホテルの予約が取れなかったことと、バンコク入りしてから、どうも私の体調が優れなかったために、カオラック行きを諦めたからでした

体の不調は、頭が痛いわけでも、熱が出たわけでもなかったのですが、今まで感じた事が無いような、言葉では説明が出来ないような違和感がありました


地震前日25日には、明朝カオラックに行くという外国人夫婦と出会い、私は、まだカオラックのホテルが確保出来ていないことを話し、「もし今夜にでもカオラックのホテルにキャンセルが出たら、私も明日カオラックに行くわ。そうしたらカオラックでも会いましょうよ。」と私は言って、2人と別れました。
そうは言ったものの、その夜どうしても体調が優れなかったので、私はカオラック行きは諦め、この2週間はバンコクに留まることを決めました。
26日はお天気も良く、チャオプラヤ川沿いのレストランで朝食を食べ、そこにはいつもと変わらぬ静かな時間が流れていました

部屋に戻ると電話が鳴りました

当時のスタッフが電話の向こうで泣いているのがすぐ分かりました。

それでスマトラ沖で大地震が起こったことを知りました

彼女にもカオラックに行くと言って来たので、もしかしたら被害に遭ったのではと思って、電話をして来たのです。
なかなかニュースが入って来ず、様子が分かるまでかなりの時間が掛かりました。
暫くしてから、中でもカオラックの被害が酷いことを知り、次々と津波に飲まれるホテルをテレビで観ました.


その時の私はただただ神様に手を合わせていました

同時に前夜に会った2人を思い出し、彼らも巻き込まれたに違いないと思い、涙が止まりませんでした

地震から3日ほどたった午後、私は自分の目を疑いました。
25日の夜に楽しく会話した彼女がホテルにいました。
彼女も私の顔を見てびっくりしています

お互いに「生きてたのね〜


彼女は、数日私の姿が見えないので、ホテルに空きが出てカオラックに行き、被害に遭ってしまったのではと思っていたようです。
そして彼女は何故ホテルにいたのか

彼女が言いました…『Mizkoと会った後部屋に戻ったら、急に高熱が出て、行かれなくなったのよ。風邪も引いていなかったんだけれどね。』
生と死の分かれ道…
この時の私達は、何か見えない力に助けて頂いたと信じています


感謝の気持ちで一杯で、バンコクに行けば、必ずお寺のお参りは欠かしません

こうして繋ぎ留めて頂いた命は、これからも大事に、そして熱く燃やし、少しでも人様のお役に立てるように精進して生きて行きたいと思います。
あの時命を落としていたら、あなたにも出会えなかったですものね…

今日の日のこの命に感謝


madame_mizko at 22:40│Comments(0)│